限られた人生の時間をギターとどう過ごすか?

20年前にジストニアを発症。自分で治しました。死ぬまでギターを弾きたい、そんな思いをつづっています。

故江部賢一先生の思い出と私のこと

 

いきなりですが、
まさか、江部賢一先生のことを、今、ここで語るようになるとは・・・。

実は私は江部賢一先生とは、親しくお付き合いをさせていただいていました。


そもそも、私はこの「はてなブログ」をはじめて、ひと月くらいかな・・、
はてなブログをはじめようと思ったのは、自分の本サイトと切り離して、
ジストニアのことを独立して紹介しようと思ったからです。

 

はてなブログの「ギターグループ」に参加しました。
このとき、はじめて「江部賢一フアンクラブ」を知ったのです。

 

まず、フアンクラブを主宰されている方に敬意を表したいと思います。
江部賢一先生のフアンがたくさんいらっしゃるのですね。先生は音楽界にも影響を与えた方なのですね。

私と江部先生の思い出をお話しします。

 

江部先生を訪ねたこの頃。

私はクラシックギターに限界を感じていました。

たぶん、ソルのエチュード何番かで先に進めなくなりました。
「ソルの魔的の主題~」「アルハンブラ宮殿の思い出」をコンサートで演奏した私が、
応用がきかない
他の楽器と遊べない
アドリブの入れ方がわからない

 

そんなときに、私がギターを習っていたS先生に
私の住まいの近くの江部先生のことを教えていただきました。

江部先生のマンションは、田園都市沿線のたまプラーザの駅そばにありました。
春は白と淡いピンクのハナミズキの花が咲いて、それはそれは美しい街並みです。「金曜の妻たち」の舞台になりました。

初めて先生を訪問したときドアを開けると、やさしい笑顔がありました。
先生は「何からはじめようか・・・」
というのは、

今までだと、クラシックギターの譜面を見ながらレッスンを受けてきたので、
江部先生のところでは譜面は使わない、ギターは持参しない、
私自身が何からはじめていいかわからないのですから。
江部先生も困った生徒だったと思います。

 


先生がアレンジした曲をパソコンからダウンロードして
その譜面をみながら、先生が弾くギターに合わせて私もギターを弾きました。


しかし、先生のギターについていけないので、
すみません、すみません、
もう一度はじめから・・
こんなかんじです。

 

あるとき、エリッククラプトンのブルースを聞いて、ブルースが好きになり、
江部先生に話すと「女ブルースもいいね」と笑いなが、
ブルースの曲を流して、3コードを教えてくださいました。

 

 

私にとって江部先生はギターの先生というより、
レッスンが終わると「先生、コーヒーに行こう」といって、
近くのカフェでよく、おしゃべりしたものです。

 

人生の限りある時間をギターとどう過ごす

 

実は私は江部先生が音楽界では有名な方だとは知りませんでした。


ここで私の自己紹介をします。

プロフィルにも書きましたが、私は「時間簿」を考案して、マスコミに大きく取り上げられていました。大手新聞、NHKテレビ、雑誌・・・など。電車のつり広告にも大きく出ていました。

江部先生も私のことを存じなかったし、興味もなかったと思います。

 

ひとつだけ、アマゾンで「江部書店」があること教えて下さり、
これがきっかけで、私もアマゾンで「あらかわ書店」の設置の方法を教えていただきました。

 

この頃、私は子どものお片付けのCDの計画を立てていました。


江部先生とのおもしろいエビソートがあります。

江部先生作曲「サンバde片づけ」

私の著書には「頭のいい子に育つ4歳からのお片付け」など、こどもの片づけ本が数冊あります。それと、大手新聞の家庭欄では私の「子どもの片づけ」特集がよく組まれていました。

 

子どものお片付けの作詞はできていました。

たまたま、雑誌で一緒だった歌手に「かたづけマンボ」を歌ってほしいと話しかけて、私の作詞を渡してしまつたのです。


そしたら、なんと、その歌手が「私が作詞をして、作曲家が曲を作って、片づけマンボは自分たちで出すことになったの」というのです。
パクリですよね。

 

さっそく、江部先生に話したら、笑って。
「そおー、じゃ、こっちはサンバで片づけ」でいこう。と
「サンバでかたづけ」ができました。

歌 加賀香織
作詞 あらかわ菜美
作曲 江部賢一

サンバdeかたづけ - YouTube

 

たぶん、録音はヤマハのスタジオだったと思います。
ガラス窓越しに、歌手が歌うのをきいていました。。

録音が終わると、お昼を一緒に食べながら
「先生、これは大ヒット間違いないです」
「そりゃ、助かるね。ローンがあるので・・・」

大ヒット、大ヒットと連発していた私でした。
CDを講演先で売ったりしたものです。

このころ、時間簿で多忙だった私は
ジストニアのこともあり、ギターはほとんど手に触れることはありませんでした。

そうこうするうちに、福島の原発事故が。
今から12年前ですね。


世の中は、コロナのときのようにも暗く、静かになりました。

この年に、私の母や親しい友人が亡くなり。私の人生の転換期に入りました。

 

 

音のない世界に音を求めて~

出版界を離れました。

毎日、朝から晩まで、
寝ころがって、パソコンで世界中の楽器の音楽を聴きました。
自分のやってきたギターはなんだったのか・・・
同じ曲を楽器を変えてききました。

 

ふと、
「荒城の月」の尺八が流れてきました。
私は飛び起きたのです。
この、単調なメロデーの美しさ・・・

ある日、テレビから、どこかの片田舎で
おばあさんの口ずさむ民謡のような声が流れてきました。

私が求めている音はこれだった!

魂に響く音・・・・。

そして、音と何か
音はどこから聞こえてくるのか・・・
見えない音。
魂の音の探求が始まりました。

 

そして、音のない世界へ

グランドキャニオン、モニュメントバレー

持っていったのは自作の竹笛です。

寒い1月でした。

竹笛を吹いています。
冷たい空気と澄んだ空と私の竹笛の音。

 

 

世の中にある音はすべて美しい

人の歩く足音や、団地の窓からあふれる生活の音も。

 

指揮者の坂本龍一氏は晩年、
「オーケストラだけが音楽でない、人の足音も、雑踏もすべてが音楽だ」と。

江部先生は「きっと音の世界に生きた人だった!」
何年ぶりだろう・・・。

江部先生に電話しました。
これが最後の電話になりました。

「先生、音ってなんですか? 先生にとって音はなんですか?」
受話器から聞こえてきたのは、いつもの江部先生とは違う。

元気のない声で「今、病院に入院している」といって、
「おとはおくがふかくて、でんわでは、はなせない。
こんど、あったときに、はなそう」

これが、江部先生の最後のことばでした。

 

その後

私は再びギターを手にすることに


10年ぶりかな・・・
ギターの姿勢をイチから見直し、ギター支持具を見なおして、・・・
そして、
あるギターリストのジストニアを克服したブログにたどり着き、

自分がジストニアだったと知ることになりました。

 

江部賢一先生作曲。

サンバdeかたづけ - YouTube

 

サンバdeかたづけのCDは、本の付録か、雑誌の付録にしていただくために、出版社の担当者と打ち合わせをしました。

曲はすばらしいけど作詞がよくないと指摘されました。

 

もし、福島の原発事故がなかったら、
「サンバdeかたづけ」は世の中に出ていたかもしれません。

 

江部賢一フアンクラブ

 

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